読了メモ

ない、なにも、なにもかも

宇野重規『保守主義とは何か』を読んで

 

以下の文は、保守主義とは何か』の内容とはあまり関係がない
本の情報をお求めの方は、きちんとした書評をお読みください。


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「自由は人権という抽象的な哲学的原理に基礎づけられるべきではない」

数年前に某思想史家が「自民党は保守ではない、保守主義とは本来はエドモンド・バークフランス革命の…」とwebメディアで語るのを読んだ。そのときからずっと感じていたわだかまりが解けた。

安倍政権には保守的ではない側面があるのには同意する。でも、バークのような一人の「始祖」の思想を引き合いにして、現在の政党を「正統的保守とは言えない」と評しても仕方がない。それは当たり前かもしれない。ただ、それが、保守思想の姿が歴史的に多様であることを知って、うまく腑に落ちた気がする。*1

一方で、読む意味があるのかとやや退屈に思いながら読んだ「始祖」エドモンド・バークの二百年前の思想は、想像以上に私を揺らがせた。さすがは古典。たとえば最初に掲げた一文や、「それ(権利)が歴史的に形成され、もはや人々の第二の「自然」ともなった社会のなかで機能するのを求めた」といった彼の主張*2は、法哲学者にはまた別の主張があろうとは思いながら、ともすると教条主義的になりがちな私の話法に対するブレーキに今後なってくれるのではないかと思う。そう思いたい。

「国王は、あくまで王国の時間を超えた連続性を体現するもの」

天皇を神聖視せずに、その存在の正統性を認めるロジックを私は今ひとつ日本社会に見出せていなかった。象徴天皇制における天皇の存在意義は、その歴史性と情緒のみに支えられている。そう思っていた。被災地に足繁く慰撫に訪れ、戦死者の慰霊を引き受け、(政治の持ち得ない)国家の良心を体現する。その在り方を私は否定しない。否定しないが、どうにも脆く思える。

バークは国の機能の根幹の連続性の担保を君主に付託する。立憲君主制は認めない。民意によって国王の司る「価値」が揺らぐような制度は許さないのだそうだ。一方で、国王の専横も許さない。

天皇がいま日本社会にそれほどに強い「国家の象徴」として認識されているとは私には思えない。権威主義を自ら拒絶するかのような質素で人間的な姿は、それゆえに共感を呼ぶにしても、バークの求めた英国王室の絶対性のようなものはもたない。

しかし、良心と霊性という、政治の言葉によって語りづらく、また語られないことによって最大の力を発揮する超理性的な原理を代表する存在として、天皇を認めていいのではないかと思うようになってきた。*3

「理性を名乗るものへの疑義」

保守主義の要諦といえる「理性を名乗るものへの疑義」は間違いなく自分にもある。管理主義も加速主義も嫌いだ。その一方で、理性を名乗らないもののもつ賢さを、私はうまく捉えることができずにいる。

昨今、「(悪い方の)反知性主義」や「超空気社会」という言葉があったりして、あるいは行動経済学によって、一般市民の判断力に対して悲観的な評価をよく目にしてきたように思う。

コロナ禍において、どうにも疫学や公衆衛生学の専門家や知識人たちは、日本社会のなかでの感染拡大ペースを見誤ってきていたように思えている。日本ではなぜか感染拡大のペースが緩かったり、“なんとなく”拡大が収まってしまう。それを彼らは"ファクターX"と呼んだりした。

一般市民は抽象的な思考を巡らせる訓練を受けていない。でも、生活に紐づいた判断能力は決して低くない。その後者をリベラル派や知識層は過小評価し続けてしまっているのではないか。

 

息切れしてきた。たかだか2000字もない文章を書くのにこんな手間がかかってしまうのか。

  • 現代アメリカの「ネオコン」がどういう集団を指しているのかわかったところで、ようやくアメリカ政治の流れがうまく理解できた。
  • チェスタトンは多くの思想家が触れていて、見るたびに気になってしまう。いつか触れてみたい。

 

*1:立憲民主党が保守を名乗る必要があるのかはいまだに理解しかねている。誤解を誘うラベリングは、結局のところ自己満足以上のものになりえないのではないかと思う。

*2:正確には『保守主義とは何か』からの引用であって、バークの言葉ではない

*3:そういえば、コンビニのおでんに毒を入れる奴がいない、という他者への曖昧な信頼がこの社会を成り立たせている。って言ってたのは大澤真幸だったか