読了メモ

ない、なにも、なにもかも

昔のことは覚えていない、ということ。(下書供養)

これも下書きに入っていたもの。少し書き足した。

 

 

高校の頃、ピアノをすごく小さな音で弾こうとしていた。


通常のピアノの音量でいうとsubito p からpppくらいの音量。その音量では、ピアノは打楽器であることをやめる。*1

響かない、柔らかい音を出そうとしていた。

それはホールを鳴らさない。

 

人に届かない音楽でいいように思っていた。

クルターク夫妻の、アップライトでやるリサイタルを知って、それでいいじゃんって思ったり。

 

実際それでいいようにも今も思う。

でもentertainingである音楽も大事だよね。団欒って大事だよね、って思うときもある。

 

音楽も文学も、おぼつかなさがあっていいじゃん、みたいな。

それが聴く人間にとってわかりやすいprofessionalismの演奏じゃなかったとしてもね。

 

 

 

大学で合唱サークルの伴奏で、ネアカな曲をやって、ステージで弾いたのは確かに幸福な体験だったと思うけど(本番までのすべての練習が不必要だったのではないかと言うくらい主観的には別の演奏をした気がする)、いまそういうコンサートピアニズムは身につけたいと思わない。

たとえ弾く機会があったとしても、それはもう私の身になるものではない。

それが三十路が近づくということなんでしょう。

*1:ピアノというのは、指で鍵を押すと、シーソー型の鍵の反対側がハンマーを持ち上げ、勢いのついたハンマーが弦に当たって出る。…というのが一般的な説明だが、実際には、そこに鍵盤そのものが箱の底を打つ音が混じる。その衝撃の具合と打弦音とのバランスが音色を決める。

高校生の自分は、鍵に底を打つほどの慣性をつけさせず、でも軽いハンマーには弦に当たるくらいの小さな慣性をつけるタッチの範囲でピアノを弾こうとしていた。