読了メモ

ない、なにも、なにもかも

夢記

誰かが 地球の重力から吹き飛ばされて、遠い旅に出てしまった。安全な、孤独な、いや本当に安全なのか? 急かされて救出機が打ち出された、2つの楕円軌道の交点に達するのは一年半後。それまでは、幸くあれ。

その頃私は南の雲の下を飛行する。白い三角凧の旅は安全だったはずだが今は積雲の下、頭上で生成消滅する雷は遠い方が安全。雲上は遠い、遠いから降りる、海面は花緑青、荒れても飛沫は南洋の温かさ。退避した島には青碧のXXXが数多棲んでいて、その怪物の魂の和ぶことを祈る、祈る、怒るように祈る。その時わたしは女である。

ホテルだ。夜の茶房にはもう善哉はありません、異国の客ならいざ知らず、私にそれを食べる権利はない。

しかし祖母の家だ。一階で眠る大達磨。その顔が邪悪でないことを階上から何度も確かめる、降りる。家族を起こさないよう、音を立てないようにすると必ず立ててしまって、急いで戻る3階の、泣く七つ児の花緑青の妹たち、私は天井裏に飛び行ってやり過ごす、そこは妹は来られないから、不織布の天井の、白い裏には。

という夢を見た。
仔細を思い出そうと念じていたら、はらはらと、古い夢の断片が脳の奥から現れた。夢のマンション、夢のホテルのエレベーターホール。見たことも忘れていた映像が。

和歌・語彙メモ

春雨物語・血かたびら

手柏 奈良山の児の手柏のふた面にかにもかくにもねぢけ人の友(万葉)

山吹 妹に似る草と見しより吾が標し野辺の山吹誰か手折りし(万葉・十九)

夢に六つのけぢめをいふ

正夢・霊夢・思夢・寤夢・喜夢・懼夢(『周礼』春官)

青垣
太虚(おおぞら)
よぼろ

花は南に先づさくものを 雪の北窓心さむしも

 

御諚:貴人の命令、お言葉。

風のない、底まで冷え切った夜があった。夢の外で犬が鳴いていた。その朝に、一条大路が荒れはてているとの報があった。ひどく寒い朝だった。
ゆけば、霧のなか、月初めに白砂を敷きなおされたはずの路は濡れ、泥と提灯と松明とが綯いまぜになり、車が打ち捨てられ、それが無数の足跡と轍に踏み荒らされていた。路の足跡は検べる下人のものより深く、幾許かはあたりの小路から湧き出でたようで、少し辿ると跡は薄くなって消えた。

東へゆくと、めしゃめしゃに潰された車が次々に現れた。見ると、戻り橋の上には豪奢な車がいくつも重なって潰れていた。橋の先を検めに行った放免は、しばらくして戻り、橋のたもとで大きく咳き込んだ。それでやんだ。混沌は橋の先でふっと終わっていたという。

西を検めに行った藤判官によれば、路の混沌は神泉苑に続いており、霧の中、朽ちきった禁苑に、どこからともなく運び込まれ、静かに積み上がっていたはずの屍体が、ことごとく消え去っていたという。

二日の後、一条の路には白百合が生い、やがて枯れ、橋の先を検めた放免もほどなくして失せたという。

宇野重規『保守主義とは何か』を読んで

 

以下の文は、保守主義とは何か』の内容とはあまり関係がない
本の情報をお求めの方は、きちんとした書評をお読みください。


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「自由は人権という抽象的な哲学的原理に基礎づけられるべきではない」

数年前に某思想史家が「自民党は保守ではない、保守主義とは本来はエドモンド・バークフランス革命の…」とwebメディアで語るのを読んだ。そのときからずっと感じていたわだかまりが解けた。

安倍政権には保守的ではない側面があるのには同意する。でも、バークのような一人の「始祖」の思想を引き合いにして、現在の政党を「正統的保守とは言えない」と評しても仕方がない。それは当たり前かもしれない。ただ、それが、保守思想の姿が歴史的に多様であることを知って、うまく腑に落ちた気がする。*1

一方で、読む意味があるのかとやや退屈に思いながら読んだ「始祖」エドモンド・バークの二百年前の思想は、想像以上に私を揺らがせた。さすがは古典。たとえば最初に掲げた一文や、「それ(権利)が歴史的に形成され、もはや人々の第二の「自然」ともなった社会のなかで機能するのを求めた」といった彼の主張*2は、法哲学者にはまた別の主張があろうとは思いながら、ともすると教条主義的になりがちな私の話法に対するブレーキに今後なってくれるのではないかと思う。そう思いたい。

「国王は、あくまで王国の時間を超えた連続性を体現するもの」

天皇を神聖視せずに、その存在の正統性を認めるロジックを私は今ひとつ日本社会に見出せていなかった。象徴天皇制における天皇の存在意義は、その歴史性と情緒のみに支えられている。そう思っていた。被災地に足繁く慰撫に訪れ、戦死者の慰霊を引き受け、(政治の持ち得ない)国家の良心を体現する。その在り方を私は否定しない。否定しないが、どうにも脆く思える。

バークは国の機能の根幹の連続性の担保を君主に付託する。立憲君主制は認めない。民意によって国王の司る「価値」が揺らぐような制度は許さないのだそうだ。一方で、国王の専横も許さない。

天皇がいま日本社会にそれほどに強い「国家の象徴」として認識されているとは私には思えない。権威主義を自ら拒絶するかのような質素で人間的な姿は、それゆえに共感を呼ぶにしても、バークの求めた英国王室の絶対性のようなものはもたない。

しかし、良心と霊性という、政治の言葉によって語りづらく、また語られないことによって最大の力を発揮する超理性的な原理を代表する存在として、天皇を認めていいのではないかと思うようになってきた。*3

「理性を名乗るものへの疑義」

保守主義の要諦といえる「理性を名乗るものへの疑義」は間違いなく自分にもある。管理主義も加速主義も嫌いだ。その一方で、理性を名乗らないもののもつ賢さを、私はうまく捉えることができずにいる。

昨今、「(悪い方の)反知性主義」や「超空気社会」という言葉があったりして、あるいは行動経済学によって、一般市民の判断力に対して悲観的な評価をよく目にしてきたように思う。

コロナ禍において、どうにも疫学や公衆衛生学の専門家や知識人たちは、日本社会のなかでの感染拡大ペースを見誤ってきていたように思えている。日本ではなぜか感染拡大のペースが緩かったり、“なんとなく”拡大が収まってしまう。それを彼らは"ファクターX"と呼んだりした。

一般市民は抽象的な思考を巡らせる訓練を受けていない。でも、生活に紐づいた判断能力は決して低くない。その後者をリベラル派や知識層は過小評価し続けてしまっているのではないか。

 

息切れしてきた。たかだか2000字もない文章を書くのにこんな手間がかかってしまうのか。

  • 現代アメリカの「ネオコン」がどういう集団を指しているのかわかったところで、ようやくアメリカ政治の流れがうまく理解できた。
  • チェスタトンは多くの思想家が触れていて、見るたびに気になってしまう。いつか触れてみたい。

 

*1:立憲民主党が保守を名乗る必要があるのかはいまだに理解しかねている。誤解を誘うラベリングは、結局のところ自己満足以上のものになりえないのではないかと思う。

*2:正確には『保守主義とは何か』からの引用であって、バークの言葉ではない

*3:そういえば、コンビニのおでんに毒を入れる奴がいない、という他者への曖昧な信頼がこの社会を成り立たせている。って言ってたのは大澤真幸だったか

鋸山

なにもしない旅行というのが好きで、
ただ旅先で思いつきで電車に乗って、
海辺の街を歩いて、
陽にあたって風に吹かれて帰る。

ということを、どこに旅行しても繰り返している。

九月にしてはあまりに爽やかで、
衝動で電車に乗り、
偶然降りた駅にロープウェイがあり、
そこが鋸山だと知った。
たしかにギザギザと脈打つようになだらかな山だった。

旅先であまり繁華な名所巡りをしようとも思わない。
目覚ましいものはみな書の中にあるのだろうと思っている
 のかもしれない。

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無題

文句を言うよりも行動をする方が尊い。社会を変えるのは行動である。
そう謂う人は文句の社会的効果を過小評価していると思う。足止めもまた行為だ。

最近のホラー映画には「xxをしてはならない」という特殊なルール設定を導入するものが散見されるような気がする。(昔から?) 不如意にされてしまうことへの共感があるのか。

遠藤周作『沈黙』雑記

苛烈な宗教弾圧の歴史にただ暗然となった。繰り返し自分自身の考えと予想に裏切られながら絶望を深めていく様は、とてもドラマとして上手いと思う。海に飲まれるガルぺの殉教は印象に残る。

しかし小説が何を問いかけているのか推し量れなかった。極限状態での棄教について、その倫理を問おうとも思えない。一方で前近代キリスト教原理主義との意識の隔たりを感じてしまい、また一方で現代のショアにおける〈沈黙〉のことを思いつつ、戸惑いながら読み終えた。

内面と行為の一致あるいは対立という観点はとてもいいと思った。行為のない憐憫は愛ではない。踏み絵は信仰の内面をも損なう行為とされる。一方で主人公ロドリゴは"棄教"後も内面の信仰を必ずしも捨てない。キチジローは何度も「転び」、一方で最期まで信仰は捨てない。殉教者はどうだろう? まるで信仰の究極的な証明のようだ。その悲劇性と栄誉は否定されてはいけない。しかし、ガルぺの殉教が実際のところ入水自殺であった可能性は否定されない…いかにそれが冒涜的な考えだとしても…

 

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ロドリゴの棄教後の無気力に、村上春樹の『ノルウェイの森』の「損なわれたという感覚(うろ覚え)」のことを思い出した。

 

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『沈黙』を読もうと思ったのは、末木文美士が『日本仏教史』か何かで、日本に真のキリスト教が根付かない理由が描かれていると書いていたからだった。仏教信仰もあっという間に土着の信仰と混ざりつつ世俗化してしまったという文脈だった。

「この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐り始める。」「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない」

泥沼と海で死ぬ人たちを比べつつ、記紀神話でも泥から始まる国だったことを思い出しつつ……わかるのだけど…他の国では違ったのだろうか。