読了メモ

ない、なにも、なにもかも

鋸山

なにもしない旅行というのが好きで、
ただ旅先で思いつきで電車に乗って、
海辺の街を歩いて、
陽にあたって風に吹かれて帰る。

ということを、どこに旅行しても繰り返している。

九月にしてはあまりに爽やかで、
衝動で電車に乗り、
偶然降りた駅にロープウェイがあり、
そこが鋸山だと知った。
たしかにギザギザと脈打つようになだらかな山だった。

旅先であまり繁華な名所巡りをしようとも思わない。
目覚ましいものはみな書の中にあるのだろうと思っている
 のかもしれない。

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無題

文句を言うよりも行動をする方が尊い。社会を変えるのは行動である。
そう謂う人は文句の社会的効果を過小評価していると思う。足止めもまた行為だ。

最近のホラー映画には「xxをしてはならない」という特殊なルール設定を導入するものが散見されるような気がする。(昔から?) 不如意にされてしまうことへの共感があるのか。

遠藤周作『沈黙』雑記

苛烈な宗教弾圧の歴史にただ暗然となった。繰り返し自分自身の考えと予想に裏切られながら絶望を深めていく様は、とてもドラマとして上手いと思う。海に飲まれるガルぺの殉教は印象に残る。

しかし小説が何を問いかけているのか推し量れなかった。極限状態での棄教について、その倫理を問おうとも思えない。一方で前近代キリスト教原理主義との意識の隔たりを感じてしまい、また一方で現代のショアにおける〈沈黙〉のことを思いつつ、戸惑いながら読み終えた。

内面と行為の一致あるいは対立という観点はとてもいいと思った。行為のない憐憫は愛ではない。踏み絵は信仰の内面をも損なう行為とされる。一方で主人公ロドリゴは"棄教"後も内面の信仰を必ずしも捨てない。キチジローは何度も「転び」、一方で最期まで信仰は捨てない。殉教者はどうだろう? まるで信仰の究極的な証明のようだ。その悲劇性と栄誉は否定されてはいけない。しかし、ガルぺの殉教が実際のところ入水自殺であった可能性は否定されない…いかにそれが冒涜的な考えだとしても…

 

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ロドリゴの棄教後の無気力に、村上春樹の『ノルウェイの森』の「損なわれたという感覚(うろ覚え)」のことを思い出した。

 

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『沈黙』を読もうと思ったのは、末木文美士が『日本仏教史』か何かで、日本に真のキリスト教が根付かない理由が描かれていると書いていたからだった。仏教信仰もあっという間に土着の信仰と混ざりつつ世俗化してしまったという文脈だった。

「この国は考えていたより、もっと恐ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐り始める。」「日本人は人間とは全く隔絶した神を考える能力を持っていない。日本人は人間を超えた存在を考える力を持っていない」

泥沼と海で死ぬ人たちを比べつつ、記紀神話でも泥から始まる国だったことを思い出しつつ……わかるのだけど…他の国では違ったのだろうか。

中上健次「岬」を読んだ

枯木灘を最初に読み、こちらを後から読んだ。枯木灘の印象が変わったような気がしたが、もうよく覚えていない。田舎と父と性を扱った小説として比較するなら、宮本輝の「螢川」の方が洗練されてて好きかな。

とりあえず、マチズモの話はやめよう。毎日パンツ一枚で腕立て腹筋、男を見たら筋肉量で優劣を決める、射精でエピファニーする小説。そこから離れる。

 

家族の崩壊が繰り返し描き出される。父とは絶縁状態。兄*1自死。姉の1人は精神が不安定で、残りの姉は不在。義父との関係は希薄。義兄*2からの好意も彼は拒んでいるように見える。そして姉の夫の親族内で起きる(動機不明の)殺人事件を機に、姉が再び不安定化する。その姉を救いたいといいつつ、彼は嫌悪する。

彼はその家族から逃れられない。母は一度、彼以外の子を捨てようとした。父は絶縁された。姉らは故郷を離れた。近くで暮らす姉もまた、踏切に飛び込もうとする。

だが彼の頭に、故郷を離れることは浮かばない。全ての元凶であるとされる父の視線を土地にいる限り感じ、自分の身体と顔つきに混じる父の血を嫌悪しつつも。*3
タイトルの「岬」、姉らの父の墓地のある岬は、外部世界へと突き出る衝動、つまり男根のメタファーようでいて、その外部の不在を象徴している。

岬から山にあがったこの墓地に葬られている人々は、昔から、水は、雨水を飲み、海がすぐ目と鼻の先にあるのに船を着ける湾がなく、漁も出来ずに、暮らした。山腹をひらいて畑を打って暮らしたのだった。母はそう言った。

家族は彼を失ったら崩壊する、家族を救いたい、と彼は考えている。一方で、嫌悪の感情は折々に生じる。しかし、何から救うのだろう。母には夫がいて、義父には息子がいる。姉らにも全て夫との安定した生活がある。不安定な姉も、夫に扶けられながら生きている。親族の生活は、古市の死によって多少揺らいだものの、まったく不安定ではない。

彼だけが不安定な立場に立たされ、父の血にイラつかされている。 土地にいるかぎり父の気配は消えない。一方で土地の外部世界はなぜか遮断されている。

その鬱血が彼を腹違いの妹との近親相姦へと導く。閉じた土地にふさわしい、外部をもたない倒錯した射精衝動。そうして土地の内部循環に、暴力的な地と血の世界へと取り込まれてゆく。

 

※ 半分くらい妄想で書いています。

*1:ここでいう兄姉は全て腹違いのもの。母は3人の夫を持っており、主人公は2番目の夫との唯一の子。兄と姉は最初の夫の子で、その夫は死去している。

*2:義父の連れ子

*3:大阪での肉体労働の経験があるにも関わらず。

初笙野

笙野頼子『小説神変理層夢経 猫未来託宣本 猫ダンジョン荒神』を読んだ。

が、うまく感想をかけるほどちゃんと読めなかったので何も書けない。無念。

 

 

トライアスロンのこと

オリンピックの開催直前のこと、お台場のトライアスロンオープンウォータースイミングの会場の水質が話題になり、そこで水の汚さを懸念する声に反論する「トライアスロン選手は汚い海で泳ぐことに慣れている」っていうツイートをみた。

今思えば、どこの馬の骨ともわからぬツイッタラーの言葉をうかつに信じるべきでもなかった。でも後日の朝日新聞のインタビュー記事を読んでも、選手が当日辛かったのは水温の高さであって、水の濁りではなかった、とあった。*1

なかなかの衝撃を受けた。いままで自分が(無関心ながらも)持っていた過酷なスポーツをするひとへの一定の敬意、「わざわざ頑張って汚い水で泳ぶことを選ぶ人」っていう認識が生まれてしまった。それは前時代的なマチズモなんじゃないの、汚れをものともせず身体能力の極限を追求するのって、とも思った。しかも嘔吐も美談化しちゃうのか、いやはや、みたいな。

 

本題は、それをまた考え直したこと。「わざわざそういうことをして、その楽しみを追求する人」への嫌悪と侮蔑の感情。それは、長らく一般人から性的マイノリティ(というかクィア)へ向けられていた視線と同じものなのではないのか、ということ。*2 *3

何でそんなものを喜ぶのかと思っても、他人を矯正しようと思ってはいけない。のみならず、それを自分のものとしようとしてみる、「ふーん、あなたはそうなのね」で終わらせずにそういう自分を想像してみる、自分の中にそういう人格の片鱗を見出そうとしなくてはいけない。あるいは、そう演じる、子供と遊ぶときのように。*4

いま自分が東京湾の汚水の中で泳ぎたいかといえば、まあ無理。だけど、そういうマッチョな人格として振舞うその快楽を想像できなくはない。スポーツなんて虚無じゃねってことを忘れて、自己規律の先にある勝利の快楽というのも何とか想像できる、とは思う。

それに伴う嘔吐は・・・・・・

 

 そもそもスポーツに興味が無い。でも、それに遭遇したシチュエーションで「そちら」側の興奮に乗り移ることは、多分できた方がいい。乗るかどうかの判断とは別に。

*1:なにか大人の事情、水質を軽視しなければならない事情があるのかもしれない。でも、今書いておきたいのはそのとき自分が何を思ったかであって、話の真偽はどうでもよい。

*2:性的指向はスポーツより真剣な問題だ、みたいなことは脇に置く。トライアスロンだって"自分の意思で選んだわけではない欲求"かもしれないし、それで生計を立ててるのかもしれないし。

*3:競技として不健全なものになっているのではないか、というのも一旦脇に置く。炎天下のなか熱中症になりながらゴールしないといけないなら、マラソンは競技の在り方を変えたほうがいいと思った。

*4:スポーツ選手をクィア(変な奴)に貶めて、単にスポーツが嫌いな自分を正統化しようとしているだけなのではないのか、みたいな気もしたけど多分大丈夫