読了メモ

ない、なにも、なにもかも

トライアスロンのこと

オリンピックの開催直前のこと、お台場のトライアスロンオープンウォータースイミングの会場の水質が話題になり、そこで水の汚さを懸念する声に反論する「トライアスロン選手は汚い海で泳ぐことに慣れている」っていうツイートをみた。

今思えば、どこの馬の骨ともわからぬツイッタラーの言葉をうかつに信じるべきでもなかった。でも後日の朝日新聞のインタビュー記事を読んでも、選手が当日辛かったのは水温の高さであって、水の濁りではなかった、とあった。*1

なかなかの衝撃を受けた。いままで自分が(無関心ながらも)持っていた過酷なスポーツをするひとへの一定の敬意、「わざわざ頑張って汚い水で泳ぶことを選ぶ人」っていう認識が生まれてしまった。それは前時代的なマチズモなんじゃないの、汚れをものともせず身体能力の極限を追求するのって、とも思った。しかも嘔吐も美談化しちゃうのか、いやはや、みたいな。

 

本題は、それをまた考え直したこと。「わざわざそういうことをして、その楽しみを追求する人」への嫌悪と侮蔑の感情。それは、長らく一般人から性的マイノリティ(というかクィア)へ向けられていた視線と同じものなのではないのか、ということ。*2 *3

何でそんなものを喜ぶのかと思っても、他人を矯正しようと思ってはいけない。のみならず、それを自分のものとしようとしてみる、「ふーん、あなたはそうなのね」で終わらせずにそういう自分を想像してみる、自分の中にそういう人格の片鱗を見出そうとしなくてはいけない。あるいは、そう演じる、子供と遊ぶときのように。*4

いま自分が東京湾の汚水の中で泳ぎたいかといえば、まあ無理。だけど、そういうマッチョな人格として振舞うその快楽を想像できなくはない。スポーツなんて虚無じゃねってことを忘れて、自己規律の先にある勝利の快楽というのも何とか想像できる、とは思う。

それに伴う嘔吐は・・・・・・

 

 そもそもスポーツに興味が無い。でも、それに遭遇したシチュエーションで「そちら」側の興奮に乗り移ることは、多分できた方がいい。乗るかどうかの判断とは別に。

*1:なにか大人の事情、水質を軽視しなければならない事情があるのかもしれない。でも、今書いておきたいのはそのとき自分が何を思ったかであって、話の真偽はどうでもよい。

*2:性的指向はスポーツより真剣な問題だ、みたいなことは脇に置く。トライアスロンだって"自分の意思で選んだわけではない欲求"かもしれないし、それで生計を立ててるのかもしれないし。

*3:競技として不健全なものになっているのではないか、というのも一旦脇に置く。炎天下のなか熱中症になりながらゴールしないといけないなら、マラソンは競技の在り方を変えたほうがいいと思った。

*4:スポーツ選手をクィア(変な奴)に貶めて、単にスポーツが嫌いな自分を正統化しようとしているだけなのではないのか、みたいな気もしたけど多分大丈夫